2025.02
60歳のときより70歳の花緑がいいね、 そんなふうに言われる落語家になりたいですね。
落語家
柳家 花緑 氏

Profile
1971年8月2日東京都で生まれる。出囃子/お兼ねざらし。紋/剣片喰。特技・資格/ムーンウォーク・普通免許。趣味/読書・映画・演劇鑑賞・ピアノ演奏。経歴/1987年3月 中学卒業後、祖父・五代目柳家小さんに入門。前座名 九太郎。1989年9月 二ツ目昇進。小緑と改名。1994年 戦後最年少の22歳で真打昇進。柳家花緑と改名。
花緑師匠はどのようなきっかけで落語をはじめたのですか。
ご存じのように、私の祖父は落語協会の会長を務め、人間国宝にもなった柳家小さんですから、落語家になるのは運命づけられたような面もあります。最も世襲制じゃないので必ずしも落語家になる必要もありませんが、母が私を落語家にさせたくて九歳の頃から落語を始めました。前座になるまで小中学時代は祖父をはじめ叔父である現在の六代目小さん師匠、さん喬師匠、亡くなられた小三治師匠など、錚々たる噺家に手ほどきを受けました。
小さん師匠に弟子入りしたのが15歳ですが、祖父に入門したことの影響は大きかったようですね。
今ほど二世落語家がいない時代で、まして「落語協会会長の小さん師匠のお孫さんが入ってくる」というので周囲の師匠方にとても気を遣わせてしまったという印象があります。周りが過剰に反応してしまう。いわゆる「お坊ちゃん」的な扱いだったので、それが段々プレッシャーになってきて、前座から二ツ目になる頃には、皆さんの前でどう振る舞えばいいのか分からなくなった感じがありました。まだ10代で気が利くわけでもありませんし、飲みに連れていってもらってもお酒は飲めないし、話は合わないし、困りましたね(笑)。これは後に判明した発達障害の影響もあったのですが、躁うつのような、そんな状態であったと思います。
一般的には遊び盛りの年頃ですが、落語に夢中になっていたのでしょうか。
前座時代も二ツ目なっても忙しかったです。バブルの時期だったこともその理由でしょうが師匠の存在も大きかったと思います。メディアにも呼んでいただいたしインタビューもずいぶんたくさん受けました。
当時は夢中でやっていましたが、後で協会のほうに聞いたらダントツで仕事が多かったようです。そうこうしているうち前座2年半、二ツ目4年半の7年で真打ちに昇進しました。
普通15年かかるところを半分ですから、フツーじゃありませんね(笑)。年齢的にもまだ子どもですから、史上最年少ではないけれど「戦後最年少の真打ち」とか言われまして、真打ちになっても自分が感じている葛藤、ギャップがあって端から見るほど順風満帆ではなく、悩みを抱えてはいましたね。
40代に入って発達障害であることが公表されました。
もともとはテレビのバラエティ番組で中学校時代の通知表を見せたことから始まって、私は主要科目がほとんど1か2で美術や音楽だけ5だったんです。それで番組的に「若くして真打ちになりお弟子さんもたくさんいる花緑さんが実はまったく勉強ができなかった」という流れになり、その視聴者さんから発達障害であることを教わりました。
改めて調べるとすべて特徴があてはまり、今まで読み書きができなくて勉強ができなかった自分への違和感が解消されました。隠していこうと思っていたことが発達障害のせいだったことがわかり、すごく楽になりました。飛び続けてきた鳥がやっと止まり木で羽を休ませることができたような、安堵感がありました。それまでは自分に自信がないのでインタビューを受けて話をしても気恥ずかしくていつも落ち込んでいましたが、それがだいぶ変わりました。
発達障害に関するテレビ特番に呼んでいただいたり、本を出版したり、講演会には今でも全国から呼ばれています。

落語の噺を覚えるうえで苦労はありましたか。
落語の稽古方法は口伝ですから、基本的には噺を聞いて覚えるわけです。
頭のイイ人はそのまま暗記しすればいいのですが、なかなかそうもいかない。それで録音しても良いという師匠がいると録らせてもらい、何度も聞きながら少しずつ平仮名で書いて、自分の台本を作り覚えていきました。後日、医師に「それは大変だったでしょう」と言われましたね。発達障害の特徴の一つである多弁症でもあったので、落語を喋るために苦手な文字に向き合い台本を書いたのは、情熱以外の何ものでもありません。落語を大して好きでなかったら覚える段階で挫けていたでしょうね。
そうした苦労も乗り越えて、30代から40代にかけて数々の賞も受賞し、テレビのレギュラー番組出演などもあって知名度も上がっていきました。現在落語業界での立ち位置をどうとらえていますか。
名前が売れ始めて、自分に自信がもてるようになった頃に「弟子になりたい」という人が現れました。
師匠の小さんに聞いたら「教えることは学ぶことになるからとりなさい」と言われまして、現在では10人の弟子がいます。去年までに5人が真打ちになり、今年の春にまた3人真打ちに昇進します。年齢的なことも考えると、立場的には中堅でしょう。高座においても多くの師匠方と仕事をさせていただき、忙しくさせてもらっていますから、恵まれていると思いますよ。
私生活も充実しているそうですね。
東京と5年前に御殿場にも住まいをもって二拠点生活を送っています。御殿場は箱根や三島、沼津が近くて温泉も多いし、遊ぶところがたくさんあります。
あちこち妻と車で出かけていきますが、全く飽きません。二拠点生活がとてもプラスに作用しているしプライベートが充実していて、これ以上望むものもありません。物欲もほとんどない。だからこそ、それ以外のことは落語と向き合えるんです。落語家としてこの噺をやれるのか、自分のものにできているのかという点に挑戦でき、集中できていると思います。
花緑師匠は53歳ですが、これからの落語家人生についてはどう考えていますか。
私が今一番充実していると感じるのは、やりたい噺をやれるようになる、ということです。それが最も欲していることです。会社員の方と違って私たちの世界では定年はありませんし、逆に歳をとったときに価値が出てくると言われています。
ただ歳をとって古くなるのではなく、たとえていうと価値のあるアンティークになりたいです。古くなるだけでは価値は出ません。歳をとれば歯切れが悪くなったり、いい淀んだりしがちですが、そこは師匠の小さんが生前言っていました「芸は上り坂がいい」って。やはり歳を重ねても日々の積み重ねで上がっていける。精進次第で差が出ます。
生きている間が現役で、寿命がどこまであるか分かりませんが、後から見て私の落語が一番良かったのは60歳過ぎてからかも知れませんし、来年死んでしまったら、これまでのピークがどこにあったかは分かりません。ただし長生きするとすれば歳とともに落語家としては上を目指したい。後々「60歳のときより70歳の花緑が良かったね」、そう言われたいです。
今より力が抜けたり、間がもてるようになったり、そんな味が出せるといいですね。
関内ホールにて(11月8日取材))
インタビュアー福井